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2017年ミナマタ現地調査(1日目)

  • 2017.08.26
     2017年8月26日から27日にかけて、ミナマタ現地調査が開催されました。
     1日目には、「水俣病公式確認61年 水俣病の原点にたつ!」をテーマに水俣市内の視察が実施されました。

     以下では、視察地の一部をご紹介します。


    (1)親水護岸、慰霊碑
     視察の冒頭に、慰霊碑前において慰霊式を執り行いました。
     水俣病不知火患者会の岩﨑明男副会長が祈りの言葉を述べ、約9000羽の折り鶴が慰霊碑前にたむけられました。この折り鶴は、ノーモア・ミナマタ第1次訴訟提訴の頃より、大石利生会長がすべての水俣病被害者の救済を願って折り続けたものです。
     1992年以降、慰霊碑の前では、毎年5月1日の水俣病公式確認の日に「水俣病犠牲者慰霊式」が執り行われています。
    慰霊の対象となっているのは、公害健康被害補償法(公健法)で認定され亡くなった2000人近い方のうち398名(2017年5月1日現在)です。また、これまでの裁判や政治解決、特別措置法で認められた水俣病被害者は、慰霊の対象となっていません。慰霊式を主催する同実行委員会では、水俣病被害者に対する認識の相違を埋めるための真剣な議論が続いてます。

    (慰霊式の様子)



    (2)旧チッソ工場跡
     旧工場跡は、チッソと水俣村との関係が始まった原点ともいうべき場所です。
     石炭運送業と製塩業を主要な産業としていた水俣村では、水力発電所の設置や国による塩の専売制開始により、産業が衰退し失業者があふれていました。
     そのような時期に、チッソの工場建設計画が明らかになり、他町村との誘致合戦の中、チッソにとって一番有利な条件を提示した水俣村に建設が決まったのです。
     水俣村は、チッソが誘致されたことにより一気に南九州有数の街となりました。1956年当時には、チッソが支払う法人住民税や固定資産税、その従業員の住民税などで水俣市の税収の半分以上を占めていました。そのため、チッソと水俣村(市)との間には、誘致当初から圧倒的なチッソ優位の力関係が存在したと言われています。

    (3)百間排水口
     チッソは、化学製品の原料であるアセトアルデヒドや塩化ビニールの製造過程で、1932年から水銀を使用し、1968年5月生産終了までの期間、無処理のまま有害な廃水を水俣湾に流し続けました。その水銀の量は、70~150トンとも言われています。
     水俣病の原因が工場廃水にあるという声が高まると、チッソは、排水口を水俣川河口に変更しました。変更した1958年9月から1959年10月の間に、不知火海一帯に汚染が一気に拡大しました。不知火海沿岸地域で魚が大量に浮かび、ネコの狂死が各地で目撃されました。

    (百間排水口)



    (4)坪谷
     水俣湾の小さな入り江のすぐそばに、水俣病公式確認のきっかけとなった姉妹の家があります。1956年、5歳と2歳の姉妹は「奇病」を発症し、チッソ附属病院に入院しました。その年の5月1日、チッソ附属病院の院長は、水俣保健所に「原因不明の中枢神経疾患患者が多発している」と報告し、この日が水俣病公式確認の日とされました。
     公式確認当時、保健所などの行政とチッソ附属病院は、市民や他の入院患者の不安を解消し、治療費等を無料にするため、姉妹を含む水俣病患者を疑似日本脳炎と診断し、法定伝染病扱いで避病院に収容しました。
     しかし、伝染病扱いとし、家屋や井戸などを消毒したことで、水俣病はうつるのではないかという誤った認識が広まり、様々な差別を生むこととなりました。


    (5)八幡プール
     チッソは、それまで水俣湾(百間港)側に無処理で流していた、アセチレン発生に用いたカーバイド残渣処理のため、1947年頃から海面に石堤を築きコンクリートを流し込み、海面を埋め立ててプールをつくっていきました。
     1956年頃になると、一日200トンといわれるカーバイドの残渣捨て場に困ったチッソは、それまで埋め立て造成された広大なカーバイド残渣の上にかさ上げを行い、カーバイドの残渣だけでなく水銀を含んだ廃水なども流し込みました。
     もともと八幡プールは埋め立て目的で水分が抜けやすいよう設計されていたため、廃水は容易にあふれ出し、水俣川沿いに設置された排水管を通じて、不知火海あるいは水俣川河口へ流れ出ていました。そのために、水俣病の被害は、不知火海全体へと広がっていきました。

    (八幡プールの排水口)



水俣病不知火患者会